コレさんの私新聞「礎」第151号-2012年6月15日(木)

夢を育んでくれたもの 私の愛車物語

小学生時代、上浦半島の先端、蒲戸に住んでいた。車といえるのはリヤカーぐらいだったし、転校先の本匠村でも三輪車や木材運搬トラック、ボンネットバスに初めて出会った。5年生の時だった。 転校の日、蒲戸から佐伯港まで定期船、佐伯市大手前から木炭バスに乗った。木炭を窯で燃やしながら、そのガスでエンジンを動かすのだ。  途中の長い坂でついに力尽きて登れない。運転手が「皆さん降りて後ろから押してください」と言う。乗客全員が降りて後ろから「何だ坂、こんな坂!」と必死で押した。ともかく戦後間もない頃で燃料も不足していた。今思うと結構のんびりしてたようだ。

 1964年、日本の高度成長の象徴となった東京オリンピック開催。その期間に合わせて開催された東京モーターショーのアルバイトにありついた。担当は日産コーナーである。晴海の国際見本市会場には2週間で116万人もが入場した。ほとんどがペーパードライバーだが、「いつかはマイカー」の夢が経済成長への大きなエネルギーに繋がったのではないかと思う。 バイトと言っても会場の隅に座って何か起きた時の待機をするだけ。つまり何もせず給料を頂く結構な仕事だ。おかげでミスフェアレディたちや宣伝部長と仲良くなったり、世界的モデルたちのスケッチをしたり、各会場の見学もできた。このせいか熱心な日産ファンになった。

 20歳に免許を取り、兄の車や友人の車を借りまくって都内を走り回った。この頃が最も楽しく充実していた。自力で買ったのは50㏄のモンキーカブ、次にベンリーのCB125㏄、三菱のスクーターで流線型のスポーツタイプと続く。革ジャンにヘルメットとかなり本格的だった。

 マイカー第1号は25歳の時、テントウムシと呼ばれた軽自動車、スバル360の中古車を月賦で買った。中古ながら夢のマイカーは一応実現した。走りは良好だったが超狭い室内には閉口した。そこで1年後、ダイハツ・フェローを購入した。だが不幸な事に、2週間後友人に貸した新車が、よそ見運転の車に追突されてペチャンコに。頭にきた私は修理を拒絶、新車弁償を要求した。で、同型だが1ランク上のグレードの新車をゲットした。ところが友人S氏が「サニースポーツ」とフェローとの交換を申し入れてきた。趣味の狩猟に軽の方がいいと言う。当時の人気車を軽自動車と等価交換するのには正直驚いた。ともかく棚ボタ気分で交換に応じた。運転がさらに楽しくなった。エンジン性能は素晴らしく、冬ででもチョークなしで一発始動する。小気味よい加速感、走行感に魅了された。特に深夜寝静まった住宅街を走ってもエンジン音が分からないほど静かだった。1年後日産初のFF(前輪駆動)車・チェリークーペを、発売を待って購入した。“羊の皮を被った狼”の異名の通り、凄い車だった。私はスカGと並ぶ日産の名車だ、と今でも思っている。調子に乗って2代目チェリーに。これが大失敗。日産史上最悪の欠陥車だった。長時間走るとエンジンが焼付く。何もかも気に入らなかった。天下の日産がどうして?

 ついに頭にきてトヨタMARKⅡ3兄弟の一つチェイサーに乗り換えた。このクラスになるとさすがに重厚感溢れる。ゆっくり走れる余裕の走りに満足した。10年後調子にのってまたチェイサーに。これも10年ほど乗った。電気系統の不調でホンダのインスパイアーに乗り換えたが、この車も良かった。高速道路での安定感は抜群だった。

 定年後、最期のマイカーの積りでスバル・インプレッサに。性能はまずまずだが、乗りり心地がスバルらしく最悪。総合評価はまあまあだろう。。顧みると50年間で10台も乗り継いだ。単に移動手段の道具だけでなく走る楽しみ、喜びを充分に満喫でき、感謝である。あと何年ハンドルを握れるか、神様でないと分からないが…。

あげな話こげな話 呼吸法のススメ 楽々生活に感謝

 コレストロール値はレッドゾーンだが、体調は30代なみ、日々快調である。同年代では最高に恵まれている、と自画自賛している。原動力は簡単な「呼吸法」である。

 呼吸法は東洋独特の体術。○○流呼吸法といった流派も10以上ある。胡散臭いへ理屈は不要だ。体を動かす時に意識して息を腹から出す。倍はパワーが違う。激しい動きも素早い動きも容易である。

 いま空手道場は資金難で休眠中。といってこのままでは体がなまってしまう。そんな思いもあって、ストレッチを中心に“同好の士”だけで体を動かそう、となった。

 とりあえず、ある寺の若き僧侶Iさんが寺の集会室を無償開放してくれることになり6月から始めた。週に1回、運動半分お喋り半分である。

 あまり無理をせず、呼吸法によるトレーニングをする。70代になると体力は極端に衰え動きが悪くなる。歳のせいにする。立つ、歩くの基本動作が緩慢になる。何とか教室に通ってもさほど効果はない。呼吸法を知らないのだ。ただ息を吐く―それだけである。気楽に、元気になれる。

スバルのせちいなぁ 領土の実効支配

スバルのせちいなぁ(せちぃ=大分方言 せつない)

 オイラは昔、トラだったなんてことはない。狩猟本能だとか獰猛とかは微塵もない。ネコはひたすら人間と共生してきたぐらいは知ってるよ。今世界で最も獰猛なのは間違いなく人間だろ。(ここのお父さんを除いて)

 幼い頃、オイラは常にカケルの兄貴分として、あるいは強者として君臨していた。反抗は許さなかった。ところがカケルは信じられない運動能力があることが段々分かってきたんだ。例えば高さ2mの下駄箱に床からピョンと飛び上がるんだ。オイラは途中に棚があったとしても無理だ。先日、オイラお気に入りの座卓にカケルが勝手に寝そべってたんだ。オイラは家人に叱られてもめげず、マーキングを念入りにして、オイラの大事な専用場所として確保した筈だった。つまり「実効支配」の結果オイラの領土さ。そんで、オイラは兄貴の貫録と誇りを誇示するため、カケルを追い落とそうとしたよ。そ、それがヤツは反抗しやがる。許せんと思ったオイラは強烈なネコパンチを食らわした。やろう跳びかかってきやがった。結局哀れにもオイラはテーブルから転落。クソ!オイラはけなげにも、再度卓に上がって、我領土を奪還すべく戦った。今度はスローなネコパンチを出す。なにしろカケルの攻撃は電光石火だ。用心用心。双方睨み合う。結構長く見合った。ネコの喧嘩は睨み合いで決することが多い。互いの力量を測るのさ。オイラもバカじゃない。これは勝てない、と分かった。それで目をそらしてしまった。ついにオイラはカケルの領土侵略に屈してしまったよ。もしかしてカケルは中国の廻し者かも知れない。なんてアホな想像をして自分を納得させようとしてみた。でも負けは負けさ。お父さんがこの様子を見てニタニタ笑ってた。

 そんでお母さんと「もうスバルはカケルに勝てないな」と言って笑うんだ。クソ、そんなにバカにするなら家中にマーキングをやりまくってやるぜ。後悔するなよ。

 お父さんが言ってた。「子どもの頃、化け猫映画が流行ってたな。大抵猫が苛められて復讐する筋書だ。夜行燈の油をピチャピチャ舐める場面が怖かった」って。ネコって顔の表情がないし。犬みたいに目玉だけくるくる回す愛くるしさもないから損だね。何を考えているか分からない点が「化け猫屋敷」の物語を生んだんだと思うよ。もう少しネコの可愛さ、メリットを考えてほしいな。昔はネズミ退治で貢献してたし、今はペットとして、哀れな人間の心を癒す素晴らしい活躍ぶりさ。

 オイラだってここの家族は時たま「可愛い」と言ってくれるんだ。どうやらオイラの評価は「単純」「頭が悪い」「マーキングばかりして困らせる」「カケルよりも立派と勘違いしてる」「カケルのように野良ネコの監視をしない」「一日中寝てる」「世話になってるのに感謝しない」なんて散々だ。しかし、はっきり言わせてもらおう。オイラは好きでこの家に来たんじゃない。ホントは野良ネコとして自由を満喫してたぜ。何の権利があって家の中に閉じ込めてるのか。せめて人間様の癒しのセラピーとして感謝の言葉くらいほしいね。

 オイラだって相当我慢をしてやってるんだ。「オイラの青春を返せ!」と言いたいけど、ここのお父さんが「俺の青春も…」ってアホなことを言いだしかねないから止めておくよ。(合掌)



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