コレさんの私新聞「礎」第145号 - 2012年3月1日(木)

原発事故直後に米仏が 福島県進駐計画!

 2011年3月11日戦後日本を襲った「国家非常事態」と言える福島第一原発事故は政府の危機管理能力がないことを露呈した。平和ボケが国の統治そのものを脅かしたのである。また、原発報道に及び腰の民間放送のジャーナリズムも問われている。国民の知る権利、報せる権利は現場の人間にとっての使命でもある。それがどこかの段階でブレーキがかけられている。

 その一つに驚愕の事実が存在する。少しずつネットでも囁かれ始めている。

 原発事故が起きた時、誰もがチェルノブイリを思い浮かべた筈だ。メルトダウンという最悪のシナリオが頭に浮かぶ。菅総理のレベル5が7に修正され、政府の危機意識ゼロが露呈した。最も敏感に反応したのが米軍だ。私は自分なりに政府はどう対応すべきか考えた。それは自衛隊による福島県の占拠だ。封鎖して住民を県外に緊急輸送し、放射能拡散防止や放射線測定等全力で緊急対策を展開する。しかし、政府は隠蔽することを選んだ。あの忌まわしい戦争も帝国陸海軍も国民を徹底的に騙し、敗れた。その同じことをやり始めた。安全だ、安心しろを繰り返した枝野さん、あなたはこれで国民を失望させましたね。

 国民を騙した多くの項目で報道されないことも多い。その中でのショッキングな出来事―それは事故直後の米仏の素早い行動だ。米国は核拡散防止のため、安保理の承認を得て、米仏連合のPKO軍を福島県に進駐させる計画を申し入れたという。私が想定した緊急体制と基本的には同じだ。当時の菅総理は相当慌てたもようだ。一時的にせよ進駐を「占領」と受け取ったのか、理由をつけ断ったらしい。この件は表には出てないようだ。マスコミ(特に記者クラブ)の報道もない。官庁の公式発表を“葵の紋章”ととして代弁するからだ。権力を監視する体質にはない。

 原発事故は明らかに国家非常事態である。隠さず国民に報せる方が解決の早道だ。全国民が力を結集して行動できるのだ。今回の事故後、不可解な報道が幾つかある。例えば東電の社長が自衛隊のヘリを要請、名古屋から飛び立って大臣の命令で引き返した。また緊急放射能測定値(SPEEDI)をいち早く米軍に逐一提供したり、米の友達作戦、在日米国民の80キロ圏外への避難、国外退去などを行った。いずれも進駐計画と併せて考えると理解できる。民主党さん、国民に隠すな―と言いたい。進駐を断るなら私が言うような自衛隊による占拠、強権発動で東電を支配下に置き、住民の安全と放射能拡散防止を目指す方が最善だった。勿論御用学者は即刻クビ。国民の命が最優先だ。

 民主党は完璧に無力だったが、自民党でも同じだろう。なにしろ国を挙げて国民を騙してきたのだ。なのに東電への強硬な介入もできない体たらくである。国家非常事態も発動できないからこそ米仏の介入を招いたと思う。しかし事故がもっと深刻だったら間違いなく(国際的に)占領を余儀なくされたに違いない。

東海村臨界事故の教訓を無視した国家

 1999年9月30日午前11時30分起きた東海村のJCO核燃料加工施設の臨界事故は記憶に新しい。2名が死亡、1名重症、667名が被曝した。日本原子力施設初の大事故である。国や県の対応は遅く、東海村の村長が独自判断で状況報告を聞いてから30分後に周辺住民へ避難勧告を出した。交通機関、高速道路を閉鎖、自衛隊も出動した。臨界の核分裂を誰も止めようとしない職員に国の代理人に強制作業命令を出すぞと脅されて、あわてた職員達が数回に分けて突入し、ホウ酸注入などを続け、20時間後にやっと沈静したという。今回の福島原発事故では東電が全員退去を国に申し出て菅総理に一喝された。東海村の事故を真面目に捉えて万全の対策をとれば、状況はもっと違った展開になった筈だ。しかし、電力各社は「安全神話」という錦の御旗を振りかざし、国民のみならず自らも洗脳して、東海村の教訓を無視した。対応や結果がその証拠だ。東海村も東電も大きな共通点がある。それは責任感の皆無である。つまり国民の生命を最優先するプロとしての基本の欠如だ。そんなことはないと弁明しても無駄だ。これまで心ある学者や住民が猛烈に抗議してきたのに耳をかさなかった。「日本の原発は絶対安全です」という原発の「憲法」である。この憲法を日本の原子力権威の学者が専門語を駆使して、広告塔の役割を担った。これを茶番と言わず何と表現できるのか。

 札束を握らせて住民に原発立地を承知させたワイロ原発は、国との強力な二人三脚で無競争の独占企業として君臨した。今更後戻りできぬと言うのか、それともあっさり反省して新エネルギーへの道を目指すか。あるいは国民を再度洗脳して、原発を再稼働させるのか。いやもう既に国と再び結託して再稼働への作業が始まっている。福島と同じような爆発事故が起きたらどう弁明する?「再稼働評価は問題なかった」とシラを切るのだろう。当事者能力がない国家は無政府と同じだ。「俺たちの命を弄ぶな!」

テレビは残るか?

 インターネット、携帯電話がもはや当たり前となった。ニュースもネットが早い。私は余りテレビは見ないが、ネットではよく見ている。ネットニュースといっても新聞、テレビの配信だ。動画配信もある。何より繰り返し再生できる。特にスポーツの速報は有難い。大きな試合は経過や得点が逐一速報される。

 4月からドコモが中心となって在京5局、広告代理店、家電各メーカー等共同の㈱mminがスマートフォーン向けの放送を開始する。地上波TVとネットの融合だ。企業としての採算性はどうなのか知らないが、TV離れに苦悩するテレビ局の不安が見えるようだ。経営の柱、CM収入が今後どんな方向になるか。テレビは視聴率が料金の目安である。ネット番組の場合はアクセス数方式だろうが、媒体がどう算出するのか。また一つの番組で異なる媒体で広告主の調整やメリットがどうなるか。あるいは有料視聴にせざるを得ないかも知れない場合、金を払う視聴者がいるのか。視聴者の対応も楽観できないだろう。ニュースならテレビ併用は大して問題ないが、番組となると商売的にはかなり難しいのではと心配になる。著作権、肖像権も新たな問題を含んでいる。 一体テレビはどうなるのか?答えは―一寸先は闇―である。

あげな話こげな話 仕掛け人は誰だ?(1)

 春よ来い早く来い…閉じ籠りがちな冬にオサラバする頃様々な催しの企画で多忙になる。誰がって?それは「仕掛け人。大抵の人は与えられた仕事をきちんと果たす。プロとして恥ずかしくない仕事をする責任がある。故に余計な事を考える暇もない。しかし世の中ちゃんと仕掛け人がいるのである。そこで仕掛け人の定義を決めよう。簡単だ。実は誰が言い出したかは問題じゃない。言いだしっぺは大概実行は伴わない。それでよいのだ。大事なのは、その案を総合的に分析して、実行への道筋を組むこと。最も大事なのは収入源だ。協力企業を口説き、プロジェクトに参入してもらう。発注者が全額出す場合も勿論多い。正式決定までに仕掛け人が絵を描く。コンセプトを組み立て、構成から動員、宣伝などすべてを網羅した企画を考案する。それをプランナーが企画書に仕上げる。つまり仕掛け人は表に出なくてもよい。実際はプロデューサーが多いが…。私の手がけたケースでは仕掛けたあと、プランナーに引き継ぎ、次にプロデューサーに繋いだ。大きな仕事だった。

 巨大イベントには大抵仕掛け人が動く。全体像が出来た時点で公式発表となる。役人には(失礼だが)全体像は描けない。仕掛け人が表に出ないのは、お役人の顔を立てる意味がある。官がやる事業を何で民間人が(決まる前に)やるのかというのがある。公共事業の場合議会の承認が要る。その議案を作るにはどうしても民間の知恵が要る。予算すら算出できないのだ。

 仕掛け人は表に出ないから公式記録にもその名はない。しかし仕掛け人なしには実現しない大イベントが多い。そのい例がWカップサッカー、オリンピック、ウインブルゾンテニス、オリンピック等々だ。これの仕掛け会社は電通である。従って社内に多くの仕掛け人を擁する。 私自身は生涯1回だけの経験しかない。それも棚ボタである。企画のシナリオを創世記をヒントにしたおかげだった。決定した後、ある官僚から「聖書ではないか」と指摘され、冗談じゃないと突っぱねた。この時の大イベントに私の名前は記録上ない。(別の役割では記載があるが) そもそも私は仕掛けが好きだ。水面下で動き回るのは痛快である。例えば政治家は表で顔を売りまくる。だが選挙の下手な人は苦戦する。そんな中で、地縁血縁以外の浮動票獲得で新たな戦術を考える人も増えている。それが仕掛け人による「必勝戦略」だ。不肖わたしもある首長選で関わった。仕掛け人としてだ。 ―この件は後日述べたい。

 大分のジジババにとってはテレビ電話(ヤフーメッセンジャー)は有難い。連日生中継映像で楽しんでいる。食事風景も遊んでる風景も、本人の承諾なしに覗いている。赤ん坊に肖像権を主張する力はない。だが楽しむだけじゃない。今度上京の際には、抵抗なくジジババを迎えてもらうための、予備の慣らし運転といったところ。ジジにとっては人生の残り時間は少ない。(ババは当分大丈夫)早く会わなきゃとあせっている。

スバルのせちいなぁ

スバルのせちいなぁ(せちぃ=大分方言 せつない)

比較社会 哀れなる人間の習性

 オイラとカケルはどっちが可愛いか―というのは愚問だ。オイラに決まってるだろ。なんて勝手に思い込むところが、オイラの長所でもあり短所でもあるんだ。オイラは孤高のネコ。家人にゴマすることはないし、カケルのように甘えるパフォーマンスも嫌だね。ネコが犬に比べて必要以上に冷たい動物のよううに言われているけど、実はやたら干渉されたくないだけさ。

 ネットでネコの可愛い映像がよく紹介される。その可愛さの基準は「人間の動作に近い部分」のようだね。実際喋らないのに「喋ってる」と信じたい人も多いな。まあ、オイラのような顔や毛並みの良さで可愛いがられるネコばっかりじゃないけど何か一つ人間に近い「芸」が一つあれば、間違いなく可愛いのさ。そう一つあればいいんだ。なのに人間って欲張りだね。自分が長所を沢山持ってるという誤解や勘違いで満足する。誰かが言ってたな。長所なんて短所でもあるって。積極的で明るい人は、でしゃばりで脳天気。控えめで落ち着いた人は、消極的で暗い…ってことか。そう考えると人間ってそう偉くもないんだ。他人のことは評価しても自分のことは分からない。分かってると自信を持つ人もいるけど“大いなる思い違い”さ。その現実にいずれ思い知る。オイラたちには無縁な人間のバカさ加減だな。オイラはただ「生きとし生ける無頼の存在」なんだ。死ぬときゃ死ぬのさ。

 人間の最大の欠点は「比較」と思う…とこの家のお父さんが言ってた。諸悪の根源で悲劇の原因だと。まず差別。その延長が優越感。物事に優劣をつけたがる。強さと弱さ。豊かと貧しさ。美人とそうでない人。イケメンとそうでない人。速い、遅い等々キリがない。これがないと人間社会は続かないと思っているところに人間の愚かさがあるし、残念なことに優れると認定された人が「優秀」とされるる。反面、知能の劣る人は強大な「武力」で権力の頂点に立ち世界の歴史を塗り替えてきた―とお父さんはのたまうのだ。

 そういえばお父さんは大の競争嫌いらしいよ。競争すればどの分野でも負けると自認してるから、出世も金も縁がない。可哀相なのは家に帰ると競争世代と言われる「団塊世代」のお母さんからタップリとケツを叩かれると嘆いていたよ。そんなお父さんも何とか無競争の癒しの場を持ってるらしいね。



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